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■Infomation

1912年(大正元年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している[10]。 陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職[11]して、第3次桂内閣が発足するに至った[12]。これも寺内正毅と共に長州びいきを推し進めた結果である。しかし、寺内の死後、その勢力は急速に衰退し、山縣の死をもって長閥勢力の終わりは決定的となった。 内政への影響 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 現在東京中心部の道路は狭いといわれているが、明治期の基準ではむしろ異常なほど広い道路だった。この広い道路は将来の発展を考え、山縣が周辺の反対を押し切って作ったものである。これは彼の功績と言ってよい。 周囲の評価 護国寺内 山縣有朋墓 左が有朋の墓。右が夫人の墓松陰の文章における山縣の初出は、1857年(安政4年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことがわかるが、後に入江杉蔵にあてた文書では「群材」の一人として「小助(山縣)の気」を評価している。[13] 自由民権運動の弾圧や、大逆事件を積極的に推し進めたこと、宮中某重大事件での宮中への必要以上の容喙等から山縣の人気は生前から低かった。山縣の権威が失墜した宮中某重大事件は西園寺公望が山縣に相談したことをきっかけに山縣が動き始めたものであったが、世間では藩閥間の対立ばかりが強調されて捉えられて、結果的に山縣一人が「悪者」となった側面もある。しかし、この事件をきっかけに山縣を追い落とそうとした勢力が強かったという事やそれを後押しした世論が大きかった事を考えれば、山縣に反感を抱いていた人がいかに多かったかを示した事件との見方もある。 その死に際しては、維新の元勲として国葬が行われたが、参列したのは陸軍や警察の関係者がほとんどで、一般の参列はほとんどなかった。これに対し、ほぼ同時期に行われた大隈重信の葬儀は、同じ首相経験者であり維新の元勲であったのにもかかわらず国葬にならなかったものの(「国民葬」とされた)、各界の著名人が出席し、一般参列者によってごった返すなどあまりに対照的だった。当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。 皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は山縣に「キリギリス」というあだ名をつけていた。[要出典]明治天皇は、山縣よりも、明朗快活で冷静であった伊藤博文や日露戦争を指導した桂太郎、幼馴染であった西園寺公望を信頼していた。また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。 しかし、昭和天皇は軍人として山縣のことを高く評価していたようである。昭和天皇の項目を参照。 山縣は立憲政友会総裁の原敬を高く評価し、その内閣組閣を支持しつづけ、原敬が暗殺された折には深く嘆いた。原敬もまた山縣の影響力を十分承知して巧みに彼を懐柔していた。{{要出典範囲|しかし山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについて彼は「あれは足軽だからだ」(実際の山縣は足軽以下の中間出身)と軽蔑の意を込めて述べている。平民宰相として有名な原敬は、分家によって士族から平民になっていたが、もともとは盛岡藩の家老家の出身であった。彼が爵位を欲さなかったのは山縣ら新華族に対する嫌悪感も大きな要因であったとされる。 普請道楽 山縣は和歌、漢詩、仕舞、書を好んだ。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。山縣三名園に数えられる東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである[14]。ただ、これらも謂わば成金趣味として眉をひそめる人が多かったと伝えられる。[要出典] 山縣氏は清和源氏多田氏の流れと言うが明確ではない。家名はその祖が外為 村に住んだ事からとされる。父は蔵元付中間。母は中間岡治助の娘。家紋は丸に三つ鱗。 有朋には跡継ぎが無く、姉の壽子と勝津兼亮の次男伊三郎を養子として迎える。伊三郎は枢密顧問官・逓信大臣・徳島県知事等を務める。有朋の姉、雪子は森山久之允に嫁す。伊三郎の子山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務める。また、有朋の娘・松子と船越光之丞の三男有光を有朋の養子に迎え、山縣家分家として男爵を授爵された。有光は陸軍大佐・第21飛行団長。有道の子山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。 ユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant, 1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、南北戦争の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。 軍人としては成功した先物取引 であるが、彼は多くの歴史家からスキャンダルおよび汚職によってアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。 南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)もっとも有名な将軍の一人である。 生い立ち ヒラム・ユリシーズ・グラントはオハイオ州クレアモント郡ポイント・プレザントでジェシー・R・グラントおよびハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。彼の父親およびさらに彼の母親の父親はペンシルバニア州で生まれた。彼の父親は製革業者だった。1823年の秋に一家はオハイオ州ブラウン郡のジョージタウンへ移住した。グラントは17歳になるまでほとんどの時間をそこで過ごした。 17歳のときに彼は、下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校への推薦を受け取った。議員は誤ってユリシーズ・S・グラントとして彼を登録した。彼は1843年に39人中の21番でウェストポイントを卒業した。 グラントは1843年8月22日にジュリア・ボッグズ・デント(1826年 - 1902年)と結婚した。彼らは4人の子供をもうけた。フレデリック・デント、ユリシーズ・シンプソン・ジュニア、エレン・ワレンシャルおよびジェシー・ルート。 軍歴 グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍し、ラサカ・デ・ラ・パルマ、パロアルト、モンテレーおよびベラクルスの戦いに参加した。彼は、モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進し、チャプルテペクの戦いの後に中佐に昇進した。1854年7月31日に多量飲酒を理由に彼は軍隊を辞職した。辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイで父親の皮革・金物店の経理助手となった。 南北戦争 南北戦争において、グラントは最優秀の投資信託 の1人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において両軍を通じて最も優秀であったといえよう。優秀な司令官をもたなかったために再選が危うくなったリンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた。 南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事は彼を反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊はどちらのであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。 同8月、グラントは志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。8月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フリーモント少将によりハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる。 1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、FX では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。 その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これを撃退に成功した。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、結局再任されることになる。 10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるヴィックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月3日にこれを陥落させた。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日と同じ日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部にいて南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。 リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクダウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てらることになる。 1864年3月、ミードはそのままポト日経225 に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。 西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサヴァナへの海への進撃を行い、南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。 一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。ウィルダネスの戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして海上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに海路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、アトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対して救援が送れず、シャーマンはやがてサヴァナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。これにより、南軍は降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。 戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に陸軍元帥の階級を新しく作成して彼を任命し、その労をねぎらった。