■Infomation
当時の兵部卿(後の陸軍大臣)は嘉彰親王であり、名目上だけの存在であった。大村は事実上、日本陸軍の建軍を指導することになる。大村は戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。山田は山口藩諸隊からを中心に約百名を選出し、9月5日からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。 また大村は、2年6月の段階で大阪に軍務官の大阪出張所を設置していたが、9月には同じく大阪に兵部省の兵学寮を設けた。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠を建設することも決定された。このように大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。 このように着々と既成事実を構築していた明治2年9月4日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」は、大村襲撃の理由が彼の急進開化主義に対する強い反感にあったことを表している。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。明治21年(1888年)孫(養子の嫡男)の大村寛人は益次郎の功により子爵を授爵、華族に列せられた。 大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曽我祐準、原田一道等大村派によってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は彼の後継者である大村派へ引き継がれ、明治4年に辛未徴兵として施行されるも同年内には中止となる。その後、陸軍省内の主導権が山田等大村派から山縣有朋らに引き継がれた後、明治6年(1873年)に徴兵令として続くこととなる。 人物 維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷隆盛を全く評価していなかった1人であり(大隈重信も同様)、西郷を建武の新政で反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。 まだ若かった西園寺公望は大村に師事しており、京都にいた西園寺が大村を訪問しようとしたとき、旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれている。 日本初の軍歌・行進曲とされる、品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。もっとも、当時の日本人の音楽感性の面から、成立年代をもっと後年とする説もある。 大村益次郎に関する碑や像など 大村益次郎像(靖国神社)靖国神社に大村益次郎の銅像がある(日本初の西洋式銅像)。 大阪市西区江戸堀の江戸堀フコク生命ビル前に「大村益次郎先生寓地址」がある。 大阪市中央区上町交差点に「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」がある。 大阪市北区同心町の龍海寺に「大村兵部大輔埋腿骨之地」がある。遺言により師の緒方洪庵の側に片方の足が埋葬されている。 京都府中京区木屋町に大村益次郎遭難の碑がある。 生誕地の鋳銭司村には西南戦争の翌年に顕彰碑が建てられた。 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。 長州藩領内の蔵元仲間(足軽以下の低い身分)三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 高杉晋作が創設したFX に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いた。自らをさしてしばしば「一介の武弁」と称したが[1]晩年は陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」[2]としても隠然として権力をふるい、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。伊藤博文とならび明治維新期に低い身分から栄達した代表的人物である。しかし歴史家、歴史愛好家からの評価・人気は伊藤に比して概ね低い。 若い頃の山縣1838年、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(ありとし)の長男として生まれる。士分からは遠い足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の外為 に励んでいた。このころ友人杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれるが真偽は不明[3]。 安政5年7月、長州藩が京都へ情勢偵察に派遣する青年6人の一人として、杉山松助、伊藤俊輔らとともに上京し、尊皇攘夷派の久坂玄瑞、柳川星厳、梅田雲浜らに感化を受ける。9月に帰藩後、久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾し、松陰から大きな影響を受けたと称している。影響の大きさはともかく松蔭門下となったことが出自の低い山縣が世に出る大きな助けになったことは事実である。山縣が入塾したとされる時期からこの数か月後に松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。 1863年(文久3年)高杉晋作のFX とともにこれに参加。高杉晋作は身分に囚われずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤博文や山縣が世に出るきっかけとなった。[4]同年12月高杉晋作が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任、赤根武人が出奔した後は事実上実権を握った。1866年(慶応元年)四代目総管に就任し、長州征討で高杉晋作と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。 明治維新後 1869年(明治2年)渡欧し、各国の外国為替 を視察する。翌年アメリカ経由で帰国した後は暗殺された大村益次郎の後継として、西郷隆盛の協力を得て軍制改革を行い、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。1872年(明治5年)、山縣は陸軍出入りの政商、山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追究は及ばなかったが、責任を取る形で1873年(明治6年)4月に陸軍大輔を辞任。しかし軍政家としての山縣に代わりうる人材がなく[5]、同年6月に陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。 1883年(明治16年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。 1889年(明治22年)に内閣総理大臣に就任。超然主義をとり軍備拡張を進める。第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。1891年(明治24年)に辞任[6]し、元老となる。日清戦争や日露戦争では自ら戦争遂行の指揮をとったがしばしば独断専行で大本営の指示に従わなかった。このため日清戦争時は「病気療養のため」という勅命で第一線から呼び返されている[7]。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣発足。 1899年(明治32年)、文官任用令を改正[8]。文官懲戒令、文官分限令を公布。 1900年(明治33年)3月10日、政治結社・政治集会のFX 取引 および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。 続いて3月29日、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和(さらに、国税は過去3年間から2年間に緩和。地租は1年間で変化無し)すると共に、小選挙区制(一部完全連記制の中選挙区制)から大選挙区制(一部小選挙区)に改めた。市制を執行している自治体はそれぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。山縣は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した(超然主義)。 小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、FX に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。また、政党が農村部で発達し始めたことから、外為 の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。同年10月辞任[9]。 陸軍・官僚の大御所 以後は、陸軍・内務省・宮内省・枢密院などにまたがる「山縣系官僚閥」を形成して、陸軍では桂太郎や寺内正毅、官僚では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。日露戦争では参謀総長として日本を勝利に導いたこと(ただし明治天皇は、山縣より桂を信頼しており、山縣の頭越しに桂へ諮詢することもあった)、伊藤博文が暗殺されたことにより、明治末期から大正初期にかけては山縣の発言力は増大した。 だが、桂の自立(大正政変を参照)、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第1次世界大戦など、山縣は次第に時代の変化に追いつけなくなり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。そのような中で政党内閣の時代を迎え、やがて宮中某重大事件を巡る対応の拙さから山縣の政治的な権威は大きく失墜した。 宮中某重大事件の後、ほどなくして山縣は失意のうちに逝去する。享年85(満83歳没)。 軍内部に与えた影響 山縣の元長州藩出身の軍人ばかりを要職に就かせる手法は長閥と呼ばれ、嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな汚職疑惑に絡み、一旦は辞職もしている(山城屋事件)。とはいえ、明治の元勲だけあって、軍部への影響力は大きなものがあった。