■Infomation
「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。 肥大 「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」[26] 「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来 「うどめ」とは「巨目」という意味である。西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。 沖永良部島の「社倉」のその後 沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は「社倉趣意書」を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の「社倉趣意書」は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。 猟好きと猟犬 西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。 マキャベリストとしての評価 敬天愛人の体現者としての評価とは別に冷酷なマキャベリストしての評価も存在する。幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いも数々している。だが、己の保身や栄達のために策を講じたことはないとされ、このことが後の西郷の高い人格的評価の源泉となっている。その一方、維新後は政治的な策略や欺瞞を一切行わなくなった。だが皮肉なことにこのことが結果的に西郷を政治的な隠遁に追い込む遠因となった。 肖像 大久保ら維新のデータ復旧 者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。 死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔を下地に、がっしりしていた従弟・大山巌の体つきを合成して描かれた物である。もっとも、キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったことから、実際の顔とは違う可能性もある。とはいえキヨッソーネが肖像画を描いた時点では生前の西郷と面識があった人物が多数おり、彼らから特に似ていないとの異論も出ていない事から、基本的にはキヨッソーネの肖像画は西郷本人の顔に非常に近いと思われる。ただし、近年の研究で実際の西郷の耳はセミナー たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが判明しており、実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。 なお、西郷が明治天皇や坂本龍馬や桂小五郎、勝海舟といった維新頃の人物と集団撮影したと称されている写真(通称・フルベッキ写真)が存在するが、西郷は当時すでに肥満しており、この写真で西郷とされている人物のように痩躯ではなかった。また、その他様々な点からこの写真は別の来歴を持つ写真であることが証明されている。グイド・フルベッキを参照。 銅像 東京都台東区上野の携帯 アフィリエイト に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)。除幕式は西郷の死後21年を経た明治31年12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。、以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街とならぶ東京の象徴的光景となっている。西郷には信頼性のある写真が一枚も残っておらず、光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にした。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている[27]。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」[27]と解釈している。 上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、モバイル アフィリエイト に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した[27]。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。 一方、鹿児島市に立つ、郷土の彫刻家安藤照作による銅像は軍装(陸軍大将)である。 上野公園の銅像に対する糸子の発言については、通販 の顔が本人に似てない事と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような整体 学校 をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。当時故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。当初は皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巖の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。時代が下って鹿児島市に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢であるのは、西郷の名誉回復という観点からすれば、未亡人が本来期待した姿に近いと考えられる。 高村光雲作(犬は後藤貞行作)西郷隆盛像(上野恩賜公園、東京都台東区) 安藤照作西郷隆盛像(鹿児島市立美術館そば、鹿児島市) (鹿児島県霧島市溝辺町の西郷公園、鹿児島空港そば) 西南戦争後も西郷は中国大陸に逃れて生存しているという風聞が広まっていた。1891年にロシア皇太子時代のニコライ2世が来日し、鹿児島へも立ち寄ると、西郷が皇太子と共に帰国するという風説もあった。西南戦争に下士官として従軍し、大津事件を起こした津田三蔵は、これを真に受け凶行に及んだといわれている。 台湾に西郷の子孫あり 1851年(嘉永4年)、薩摩藩主島津斉彬の台湾偵察の密命を受け、若き日の西郷隆盛は、台湾北部基隆から小さな漁村であった宜蘭県蘇澳鎮南方澳に密かに上陸、そこで琉球人を装って暮らした。およそ半年で西郷は鹿児島に帰るが、南方澳で西郷の世話をして懇ろの仲になっていた娘が程なく男児を出産した。この西郷の血筋は孫の代で絶えたという。 晩餐会の席で「作法を知らない」と言って、スープ皿を手に持ってスープを飲み干すなど、飾らない西郷の人柄を、明治天皇はとても気に入っていたと言われている。 [編集] その他 幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。 身長:182cm、体重:114kg[28]。血液型はB型。喫煙者であるが酒は弱く下戸であった。 青年、壮年期においては妻のほか愛人を囲うなど享楽的な側面も見せたが、晩年は禁欲的な態度に徹した。